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「見えないほどの遠くの空を」 [映画]

 昨年6月の公開後、Twitterでやたらと評判が良かったので、観たい映画のリストに入れておいたのだが、渋谷の単館上映に行きそびれていたらあっという間に公開が終ってしまった。今でも細々と地方公開が続いてはいるようではあるのだが。公式サイトはここ
 昨年の邦画ベストテンの中にも結構この映画が入ってる場面を幾つか見て、さらに「観たい映画」度は上がっていたのだが、そこにTwitterから飛び込んできたのが、都内最後の上映情報。これは見逃せない!と、ここ予約した。その返事のメールがオウム返しだけの内容不完全で、本当に予約がとれているのか不安だったが、問い返したら、(私のつぶやきをサーチして見たらしい関係者から善処しろという指示があったらしいことも奏功してか)「大丈夫」の返事が来た(既に出かけてしまってPCに届いていたのを確認したのは映画を見て帰宅後だったが)。TLで私のツイートを見ていたTomboさんも予約(4回目鑑賞!)していることがわかった。
 会場の〈荻窪ベルベットサン〉というのは映画館ではなく、ごく小規模な(看板すらかかっていない)ライブハウスで、12畳くらいのスペースに20脚ほどの簡単な椅子が並べられて、プロジェクターに幅2mくらいの布スクリーン。あまりのこじんまりさにびっくり。ドリンク付き1500円。「ゲリラ上映」とか言ってたが、その割には榎本監督本人が登場したので、別に「海賊上映」というわけではないのだろう。
 会場前でTomboさんに遭遇し、お喋りしながら待つが、開演が機械トラブルで30分遅れたw。外で待たされたが、昨日は暖かかったので辛くはなかった。座った席は前の人の頭で中央下部1/3位を隠されて見づらかった。orz 画質もブルーレイとは言えあまり良くなかった。

 余談が長くなりすぎたが、さて本編。

※以下ネタバレありまくり。
 これから必ず観るという人は厳禁、と言いたいところだが、まず今後都内で公開されることはなく、DVDも出ないそうなので、その機会は多分もはや逸失されているだろうから、ネタバレを見てしまっての損というのは起こりえないんじゃないだろうか? いや、評判が続いての再上映はあるかも知れない。しかし、この作品には惚れ込んだ人のリピーター率が異常に高いらしいのだ。ということは、結末まで知っていても何度も観直したくなる作品である、ということで、別にネタバレしてても構わないのではないか?という気もするのだが、いややはりそれは無いですよねぇ。初見はバージンでないと、あの意外性が…。おっとっと、、というわけで、スキップすべし。




















 大学の映画サークルを舞台にした、若者だけが出てくる(年かさの俳優が出ないのはもっぱらギャラの工面がつかなかったせいとか、上映後のトークショーで監督が言っていた。山崎努みたいなそれなりの顔の強さを持つ老優というのはやはり高い、と)映画制作の場、が舞台である。
 「映画を作る映画」というメタな構造が面白い。(榎本監督が実際に教えている大学の映画学科でのゼミの中で、脚本作りの実例的に創られたらしい事情もあるのか?) 自己言及的とでも言おうか、下手をすると「映画ごっこ」を楽屋落ち的に仲間内で遊んで作ったアマチュアの自主制作映画に堕しかねない設定だ。事実、制作費は困窮を極めたようで、どうしてもチープ感は拭えなかった。しかし、脚本の出来が良く、そんなハンデを越えて面白い。
 普通の青春恋愛ドラマかと思っていたら、主人公(高橋)は映研で監督として仲間と映画を撮っているが、セリフの内容で意見が違いモメていたヒロイン役(莉沙)が始まって15分くらいでいきなり事故で死んでしまう。そして、第1の意外な展開、瓜二つの双子の妹(洋子)との出会い。彼女を使って取り残した最後のシーンを撮ろうとする。第2の意外な展開、その子をスタッフに引き会わせるシーンで、彼女は他の仲間達には見えず〈幽霊〉であることがわかる、という驚愕の展開。まったくSFXを使わずに低予算wでここの見せ方は上手い。観客には幽霊なことはわかるが(Tomboさんは「細かく見るともっと前から構図の取り方でそれは暗示されていた」と)、仲間たちは彼が精神に異常を来たしたかと疑う。
 が、彼の思いを気遣って、傍から見れば茶番の撮影シーンの再現に付き合うことになる。そこで、彼女は生前の莉沙が台本を無視したセリフに拘っていたそのままに喋り、莉沙本人の幽霊であることに彼は気づく。そして、二人の間で、種明かし的な会話がなされる。が、これがかなり入り組んだことになっている。「よくわからない」感があり、何度も観直したがる人が出るのも当然か。Tomboさんも何度か見て初めて気がつくことが多かった、と言っていた。
 高橋が莉沙が好きだったのは明白だが、彼女がなぜ出てきたのか、の動機がいまいち得心できない。映画に対する同志的な意識のようなのだが、いや、同志的と言うより、あくまでも彼女のポジティブ志向を(セリフ改変によって)彼にどうしても伝えたくて、ということか?
 最後の、3年後本物の妹が登場するシーン。これは必要だったのか?あのセリフ改変を受け入れて脚本を修正した彼が、その後仕事や生き方に迷っている状態なのがちょっと納得行かないのだが、妹の出現でどう変わるのかはっきりしない。

 題名の意味は、卑小な狭い日常の中で諦めて安直な幸福にとどまるよりも、もっと視野を広く大きなチャレンジ精神を、というポジティブでアクティブな志向をメッセージとして発している、そこに〈作家性〉があるのだろうが、ちょっと言葉が上滑りしている感じがなくはない。
 予算と尺の関係か、「言葉(セリフ)」で説明して済ましてしまう部分が多いのがちょっと気になったのだ。その喋り方がいまいち棒読み風(これは演技力の限界か?)でこっちの頭の中にすっと入って来にくい。これは昨日の記事で書いたように私の読解力のせいかも知れないが…。
 やはりもう一度見て噛み締め、確認したい気分に私もなってきた。それより、シナリオを読んだほうがいいのかも知れないが。
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コメント 4

榎本憲男

上映状態の件、本当に申し訳ない。今後はああいう状態での上映は映写状態、客席の状態を確認してからOKします。御批判に対しても再考します。ありがとうございました。
by 榎本憲男 (2012-02-25 15:35) 

ask

げげっ!監督ご本人からのコメントがぁっ!
恐れ入ります。
失礼の段、平にご容赦を。
by ask (2012-02-25 15:50) 

ogricap

この映画は、最初はaskさんが書かれている通りの疑問や感想を僕も持ちましたが、二度目・三度目・・・・・・と観たくなる何かを映画自体が持っていて、観るたびに得心してしまいました。ストーリーやつながり具合を探している自分はやがて消え、いつしか亡くなってしまった莉沙の気持ちでものごとを観ていくようになりました。亡くなった彼女はどういう気持ちでいるのか。なぜ、賢の前にしか来ていないのか。「好き!とは違うんだな」とは最後に賢には言ったものの、賢に「色々、辛いこともいいこともたくさん経験して長生きして、それから私のところに来て」というのは、賢に対する一種のラブコールのようにも思えてきました。そして、一見、普段僕らが観ている映画やドラマの会話の仕方と違い、あまりドラマティックではなく、少し棒読みになっているのも、実は僕のように何度も観る人のために「薄め」の話し方になっているのではないかという気がします。最後の三年後のシーンは賛否両論がありますが、僕の見解はこうです。やがて薄れていく莉沙のことを、何年経っても、「映画」という形で思い続けている賢の前にやってきた。莉沙の台詞を取り入れ、世界中の若者に対して莉沙のメッセージが伝わるように「ここにいるだけ」の映画作りを進めようとしている賢。その賢を応援するために、莉沙が送り込んできた存在が「見える」「触れる」洋子なのでしょう。いや、もしかしたら洋子自身も莉沙の魂を取り込んだ存在なのかもしれません。莉沙は、賢と木の下で別れる時に、何度も「死んだから何もかもお見通しじゃないみたい」「私もよくわからない」と言っていました。莉沙として賢の前には二度と表れることができないけど、何らかの形で賢の果てなき挑戦を応援する気持ちは強かったと思うのです。ただ、気になるのはエンドロールの最後。木の下で眠っていた賢の服装は、再撮影の時、つまり最後に莉沙(魂)と話した時のもの。もしかしたら、3年後のシーン全体が夢だったのかもしれないとも思いました(笑)。まだまだ色々考えることができる、奥行きのある、そして何度も観たくなる映画だと思います。
by ogricap (2015-05-08 12:45) 

ask

ogricapさん、長文でのコメントありがとうございます。
今年の1月2日深夜、BSジャパンで放映されたこともあって、この記事最近PVが少し増えてました。
私もそれは録画したので、また暇があれば観直してみようかと思います。(だいぶ忘れてしまっているので)
by ask (2015-05-08 23:00) 

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